THE TREE OF LIFE ~生命の木~

世界日記 (番外編)

   
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最後まで必死になって戦う姿は美しい
例えその直向きさ最良の結果に繋がらなかったとしても、その姿勢は多くの人々の心を掴んで離さない
荒削りでも、見る者を魅了する美しきアラビアン・サッカー、それを実践したチームは、なにもアルアハリだけではない。

ヨルダン代表

アラビアン・ビューティー

女子サッカーヨルダン代表、彼女達もまた、最後までボールに喰らい付いた聖なる蹴球集団だったと断言出来る。
3戦3敗30失点無得点、クラブW杯よりも一足先に閉幕を迎えたアジア競技大会の舞台において、あまりにも酷い成績を残してしまったヨルダンだったが、試合後の彼女達の表情には一点の曇りもなかった。
イスラム国家カタールで開催された今大会、肌の露出はもちろんの事、女性が人前に出る行為自体が良しとされないイスラム社会の中で、彼女達ヨルダン代表チームは敢えて競技に参加した。
杜撰な守備幼稚な戦術そして乏しい運動量・・・。
確かに、アスリートとしての、サッカー選手としての能力は低かったと言わざるを得ない。
しかし彼女達は、予定されていた3試合全てをしっかりと戦い抜いた
日本戦で13失点、対中国戦では12失点、対タイ戦でも5失点・・・。
相手陣地に攻め込む事すらさせてもらえない、ひたすら自陣で守るだけの惨めなサッカー・・・。
それでも彼女達は、決して走る事をやめなかった
なぜか?
それはきっと、彼女達が戦っていた本当の相手が別の所にいたからだろう。

ヨルダン代表1

↑彼女達が本当に止めたかったのは、なでしこジャパンのドリブルなどではなく・・・。

ヨルダンもカタール同様、イスラム教が国教とされている国であり、当然「女性の社会進出」に対して良く思わない国民がまだまだ多いのが現状だ。
しかし、時代は変わるものだ
本来、勝敗を決するスポーツという厳しい世界においては、「参加する事に意義がある」という言葉は当てはまらないのだが、我々では想像も出来ない程の覚悟を決めて臨んだ彼女達の挑戦彼女達の参加には、間違いなく意義があった。
先陣を切った彼女達の努力が実る事を、優秀なイスラム女性が国際社会の中でその能力を存分に披露出来る日が一日も早く訪れる事を、僕も微力ながら祈っている。

バーレーン

200メートル金メダルを獲得したバーレーンガサラ選手肌の露出を極力抑えながらも、最高のパフォーマンスを披露し優勝。こういったイスラム女性が一人でも多く台頭してきてほしいものだ。

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出会いは人を成長させる。100日間に渡る今回の岐阜生活の中でも、僕は実に多くの方々と出会い、そして支えられながら日々を過ごした。それによって自分がどれほど成長したかは正直分からないが、今はただ、感謝の気持ちでいっぱいだ

ひらゆの森のみなさん本当にありがとうございました

Y支配人

↑Y支配人、色々と勉強させていただきました。

チームどんぐり

↑どんぐりチームの皆さん、最後まで足を引っ張ってしまってすいませんでした。

Iさん

↑Iさん、毎日美味しい従食(従業員専用食)ありがとうございました。

YさんとIさん

↑YさんとUさん、お酒はほどほどに・・・。

Tさん

↑掃除チームのTさん、大阪にこられた際はご連絡ください。

フロントお二方

↑フロントのお二方、何度もその笑顔に癒されました。

チームもみの木

↑モミの木チームのN君とS君、ちゃんと寝ぇ~や~。

三畳一間

↑お世話になった三畳一間ちゃん、愛しています。



奥飛騨温泉郷 平湯温泉 ひらゆの森
クリックすると公式ホームページを御覧いただけます。


僕はフランスが嫌いだ。フランス人が嫌いだ。フランス語が嫌いだ。フランス料理が嫌いだ。フレンチ・トーストを口にすれば気分が悪くなるし、フレンチ・ブルドッグを目にすれば機嫌が悪くなる。そう、僕はフランスの全てが嫌いだ。そして当然その中には、サッカー・フランス代表も含まれている。

品位なき愚将ジネディーヌ・ジダンは、ワールドカップ決勝の舞台で相手ディフェンダーに頭突きをカマし、自らチームの世界一への夢を放棄した。偉そうに高々と「今大会限りでの現役引退」を、大会前から宣言していたこのハゲは、己の輝かしいキャリアにゲロをブチ撒けた後、応援する国民(ファン)を失望させたままピッチから姿を消したのである。彼は「これが最後」「現役引退」「この大会で全てを出し切る」などのキーワードを再三口にする事でメディアを操り、記者達の支持やサッカーファンの心を掴もうとした。そしてそれは、残念ながら完璧に実を結んだ。メディアは連日「ジダンのラストダンス」「ジダン最後の大舞台」などの美談を紙面に持ち上げ、彼の有終の美を求めるイタリア国籍以外のファンも急増した。しかしそこに、一体何の意味があると言うのだろう。この大会で全てを出し切ろうと、必死で戦ってきたのは彼だけではない。みんな同じだ。ワールドカップは四年に一度しか開かれない。今回出場した選手が、次回も代表に召集される保障なんてどこにもない。ワールドカップに参加した全ての選手達は、みな「これが最後」という気持ちをもってボールを追っていたはずだ。それを、まるで自分は特別であるかのように大々的な宣伝を行い、無理やり主役の座に転がり込んだ哀れな男は、結局暴力行為という最低な過ちを犯し、世界最大の宴に水を差したまま、自分勝手に幕を下ろした。誰もが食いつくような話題を記者達に提供した見返りとして、ジダンは大会MVPに選出されたが、僕の目には、彼は敗者としてしか映らなかった・・・。

昔、柔道の「ヤワラちゃん」こと谷亮子(当時・田村亮子)選手が、涙ながらにこう言っていた。「金(メダル)と銅(メダル)は、勝って貰う物。銀(メダル)は、負けて貰う物。」決勝の舞台で敗れ、失意のままロッカールームに引き揚げたフランス代表よりも、胸を張って笑顔で大観衆に最後の挨拶をしたドイツ代表の方が輝いて見えたのは、きっとそういう事なのだろう。

フランス共和国
「FIFAランキング:8位、3大会連続12回目の出場、優勝1回(1998)」
(言語:フランス語、首都:パリ、人口:6168万人)
大会前から、前々回の世界王者フランスは危機に立たされていた。2002年のワールドカップで晒してしまった醜態、「無得点で一次リーグ敗退!」という屈辱を晴らすための逸材がなかなか見つからなかったのだ。若手中心で挑んだ欧州予選もピリッとしなかった。不甲斐ない戦いぶりに業を煮やした指揮官ドメネクは、老いたコンダクター「ジダン」や、かつての鉄人「マケレレ」など、98年時のベテランメンバーを復帰させた。これでプレミアリーグの得点王「アンリ」へのホットラインも復活したかに見えたが、やはりフランスにかつての輝きはなかった。開幕後の一次リーグ、勝利を収めた試合は一つだけで、残りは引き分けに終わった。それでもなんとか二位で勝ち上がった決勝トーナメント、一回戦の相手は無敵艦隊「スペイン」だった。ほとんどのサッカーファンがスペイン勝利を予想した対決、ここでフランスは粘りを見せた。チーム一丸となって奪った逆転勝利。華麗なシャンパン・サッカーとは程遠いプレーではあったが、彼らは下馬評を覆しベスト8まで勝ち上がった。今大会を最後に現役を退くジダン、彼を中心にフランスは背水の陣でブラジル戦に臨む。狙うは1998年フランス大会決勝戦の再現だ。

監督:レイモンド・ドメネク

GK 23 クペ
    (1972/12/31)オリンピック リヨン
GK 16 バルテズ
    (1971/6/28)オリンピック マルセイユ
GK 1 ランドロー
    (1979/5/14)ナント
DF 3 アビダル
    (1979/7/11)オリンピック リヨン
DF 5 ガラス
    (1977/8/17)チェルシー
DF 19 サニョル
    (1977/3/18)バイエルン ミュンヘン
DF 17 ジベ
    (1981/10/9)モナコ
DF 13 シルベストル
    (1977/8/9)マンチェスター ユナイテッド
DF 21 シンボンダ
    (1979/2/21)ウィガン アスレティック
DF 15 テュラム
    (1972/1/1)ユベントス
DF 2 ブームソン
    (1979/12/14)ニューカッスル ユナイテッド
MF 10 ジダン
    (1972/6/23)レアル マドリード
MF 18 ディアッラ
    (1981/7/15)ランス
MF 8 ドラソー
    (1973/10/10)パリ サンジェルマン
MF 4 ビエラ
    (1976/6/23)ユベントス
MF 6 マケレレ
    (1973/2/18)チェルシー
MF 7 マルダ
    (1980/6/13)オリンピック リヨン
MF 22 リベリー
    (1983/4/7)オリンピック マルセイユ
FW 12 アンリ
    (1977/8/17)アーセナル
FW 11 ヴィルトール
    (1974/5/10)オリンピック リヨン
FW 14 サア
    (1978/8/8)マンチェスター ユナイテッド
FW 9 ゴブ
    (1979/7/27)オリンピック リヨン
FW 20 トレゼゲ
    (1977/10/15)ユベントス

ブラジル連邦共和国
「FIFAランキング:1位、18大会連続18回目の出場、優勝5回(1958、1962、1970、1994、2002)」
(言語:ポルトガル語、首都:ブラジリア、人口:1億8352万人)
もはや何の説明もいらないだろうが、嫌でも注目が集まるのはこの男。2004年にFIFA最優秀選手賞を受賞し、2005年にはバルセロナをリーグ優勝に導いた世界最強のファンタジスタ「ロナウジーニョ」。更に彼はコンフェデレーションズカップで破壊力抜群の攻撃力を見せ優勝し、12月にはバロンドールを受賞した。太り過ぎとの声もあったが、決勝トーナメント一回戦で、ワールドカップの総得点記録を更新して見せた世界最強のストライカー「ロナウド」からも目が離せない。強烈な左足を持つ小さな巨人、世界最強のサイドバック「ロベルト・カルロス」に、世界最強のキャプテン「カフー」・・・。このチームには、世界最強の選手しかいない。層の厚さも抜群で、スターティング・イレブンのみならず、ベンチに座る選手達まで世界最強の面々だ。世界最強のカナリア軍団「ブラジル」は、1998年フランス大会決勝でフランスに敗れて以来、現在までワールドカップ負けなしの11連勝中、正真正銘の優勝候補だ。賞味期限の切れたシャンパン・サッカー(フランス)など眼中にない。もはや世界一のスター軍団には、「優勝」の二文字以外見えていない。

監督:カルロス・アウベルト・パレイラ

GK 1 ジーダ
    (1973/10/7)ACミラン
GK 22 ジュリオ セーザル
    (1979/9/3)インテル
GK 12 ロジェリオ セーニ
    (1973/1/22)サンパウロ
DF 2 カフー
    (1970/6/7)ACミラン
DF 15 クリス
    (1977/6/3)オリンピック リヨン
DF 16 ジウベルト
    (1976/4/25)ヘルタ ベルリン
DF 13 シシーニョ
    (1980/6/24)レアル マドリード
DF 4 フアン
    (1979/2/1)バイヤー レバークーゼン
DF 14 ルイゾン
    (1981/2/13)ベンフィカ
DF 3 ルシオ
    (1978/5/8)バイエルン ミュンヘン
DF 6 ロベルト カルロス
    (1973/4/10)レアル マドリード
MF 18 ミネイロ
    (1975/8/2)サンパウロ
MF 5 エメルソン
    (1976/4/4)ユベントス
MF 8 カカ
    (1982/4/22)ACミラン
MF 17 ジウベルト シウバ
    (1976/10/7)アーセナル
MF 19 ジュニーニョ ペルナンブカーノ
    (1975/1/30)オリンピック リヨン
MF 11 ゼ ロベルト
    (1974/7/6)バイエルン ミュンヘン
MF 20 リカルジーニョ
    (1976/5/23)コリンチャンス
MF 10 ロナウジーニョ
    (1980/3/21)バルセロナ
FW 7 アドリアーノ
    (1982/2/17)インテル
FW 21 フレッジ
    (1983/10/3)オリンピック リヨン
FW 9 ロナウド
    (1976/9/22)レアル マドリード
FW 23 ロビーニョ
    (1984/1/25)レアル マドリード

ポルトガル共和国
「FIFAランキング:7位、2大会連続4回目の出場、最高3位(1966)」
(言語:ポルトガル語、首都:リスボン、人口:1053万人)
1989年、91年にポルトガルはワールドユースを制した。「黄金世代」と呼ばれた当時のメンバーは2002年、国民の絶対的な支持を得たまま、今度はA代表としてワールドカップ本大会に臨んだ。しかし結果はグループリーグ敗退、彼らは母国に新たな歴史を持ち帰る事なく、失意のまま韓国から姿を消したのだった。あれから四年、ブラジルをワールドカップ優勝に導いたフェリペ・スコラーリを監督として迎えたポルトガルは、破竹の勢いで一次リーグを突破。決勝トーナメント一回戦では、オランダを相手に死闘を演じる。イエローカードが16枚も出た激闘を、マニシェのゴールを守りきる事で制したポルトガルは、ついにベスト8に食い込んできた。個々の技術を最大限に引き出す戦術で、地元開催のEURO2004で準優勝という好成績を残した彼らは、サッカーの母国「イングランド」を相手にどんな輝きを魅せてくれるのだろうか。現代表に存在する唯一の黄金世代「フィーゴ」、キャプテンとして才能豊かなタレント陣を引っ張る彼は、まだこんな所で引退するつもりはない。

監督:ルイス・フェリペ・スコラーリ

GK 12 キム
    (1975/11/13)ベンフィカ
GK 22 パウロ・サントス
    (1972/12/11)スポルティング ブラガ
GK 1 リカルド
    (1976/2/11)スポルティング リスボン
DF 3 カネイラ
    (1979/2/9)スポルティング リスボン
DF 16 カルバーリョ
    (1978/5/18)チェルシー
DF 14 ヌーノ バレンテ
    (1974/9/12)エバートン
DF 2 フェレイラ
    (1979/1/18)チェルシー
DF 13 ミゲル
    (1980/1/4)バレンシア
DF 5 メイラ
    (1978/6/5)VfBシュツットガルト
DF 4 リカルド コスタ
    (1981/5/16)FCポルト
MF 10 ウーゴ ヴィアナ
    (1983/1/15)バレンシア
MF 6 コスティーニャ
    (1974/12/1)ディナモ モスクワ
MF 19 ティアゴ
    (1981/5/2)オリンピック リヨン
MF 20 デコ
    (1977/8/27)バルセロナ
MF 8 ペティート
    (1976/9/25)ベンフィカ
MF 18 マニシェ
    (1977/11/11)チェルシー
FW 17 クリスティアーノ ロナウド
    (1985/2/5)マンチェスター ユナイテッド
FW 11 シモン
    (1979/10/31)ベンフィカ
FW 21 ヌーノ ゴメス
    (1976/7/5)ベンフィカ
FW 9 パウレタ
    (1973/4/28)パリ サンジェルマン
FW 7 フィーゴ
    (1972/11/4)インテル
FW 15 ボア モルテ
    (1977/8/4)フルハム
FW 23 ポスティガ
    (1982/8/2)サンテティエンヌ

イングランド(UK)
「FIFAランキング:10位、3大会連続12回目の出場、優勝1回(1966)」
(言語:英語、首都:ロンドン、人口:4914万人)
毎回優勝候補に名が挙がるフットボールの母国イングランド。しかし40年前に栄冠を手にして以来、常に好成績を残すものの、一度も頂点には立てずにいる。4年前、日本を黄色い歓声で埋めた美男選手「デビット・ベッカム」が、今回もキャプテンとしてチームを引っ張る。一次リーグを難なく通過した後の決勝トーナメント一回戦、エクアドル相手にベッカムの右足が唸った。フリーキックを直接蹴り込んで決勝点、観客席には歓喜に沸くイングランド・サポーターと、勝利の女神「ヴィクトリア夫人」の笑顔があった。ここ近年では最高のメンバーと噂される白い騎士達が、40年ぶりの栄光を求め、まずはフィーゴ率いる「ポルトガル」を成敗する。

スベン・ゴラン・エリクソン監督

GK 22 カーソン
    (1985/9/3)リバプール
GK 13 ジェームズ
    (1970/8/1)マンチェスター シティ
GK 1 ロビンソン
    (1979/10/15)トッテナム ホットスパー
DF 3 Aコール
    (1980/12/20)アーセナル
DF 15 キャラガー
    (1978/1/28)リバプール
DF 12 キャンベル
    (1974/9/18)アーセナル
DF 6 テリー
    (1980/12/7)チェルシー
DF 2 ネヴィル
    (1975/2/18)マンチェスター ユナイテッド
DF 5 ファーディナンド
    (1978/11/7)マンチェスター ユナイテッド
DF 14 ブリッジ
    (1980/8/5)フルハム
MF 11 Jコール
    (1981/11/8)チェルシー
MF 18 キャリック
    (1981/7/28)トッテナム ホットスパー
MF 17 ジェナス
    (1983/2/18)トッテナム ホットスパー
MF 4 ジェラード
    (1980/5/30)リバプール
MF 20 ダウニング
    (1984/7/22)ミドルスブラ
MF 16 ハーグリーブス
    (1981/1/20)バイエルン ミュンヘン
MF 7 ベッカム
    (1975/5/2)レアル マドリード
MF 8 ランパード
    (1978/6/20)チェルシー
MF 19 レノン
    (1987/4/16)トッテナム ホットスパー
FW 23 ウォルコット
    (1989/3/16)アーセナル
FW 10 オーウェン
    (1979/12/14)ニューカッスル ユナイテッド
FW 21 クラウチ
    (1981/1/30)リバプール
FW 9 ルーニー
    (1985/10/24)マンチェスター ユナイテッド

ウクライナ
「FIFAランキング:45位、初出場」
(言語:ウクライナ語、首都:キエフ、人口:4801万人)
ソビエト時代、代表に招集されるほど優秀な選手を数多く輩出していたウクライナ・サッカーだったが、ソ連が15の国家に分離し、各国がFIFAに加盟した直後、そのレベルは即座に地に堕ちる事となった。しかし、一人の天才ストライカーの台頭により、長きに渡り低迷を続けたかつての大国は希望を見出す。世界一の点取り屋「アンドリー・シェフチェンコ」の出現である。イタリア・セリエAで二度も得点王の座に輝いた彼は、新生ウクライナ代表の中心選手になった。周囲からは「シェフチェンコのワンマン・チーム!」との声が多かったが、知将ブロヒン監督の下、組織的な守備力を高めたウクライナは、強豪揃いの欧州予選をトップで通過し周りを黙らせた。見事欧州最速で本大会出場を決めた黄色い戦士達、彼らは開幕後も多くのサッカーファンを驚かせる。初戦でスペインに0-4で敗れ意気消沈したかと思えば、今度は第二戦でサウジアラビアを4-0で倒した。決勝トーナメント一回戦でも多くの予想に反し、PK戦の末強国スイスを打ち破った。ワールドカップ初出場でいきなりベスト8まで上り詰めた黄色いダークホース「ウクライナ」、準決勝進出を賭け今度は地中海ブルー「イタリア」の首を狙う。

監督:オレグ・ブロヒン

GK 23 シュスト
    (1986/3/4)シャフタール ドネツク
GK 1 ショフコフスキー
    (1975/1/2)ディナモ キエフ
GK 12 ピャトフ
    (1984/6/28)ボルクスラ ポルタバ
DF 5 イェセルスキー
    (1976/11/15)ドニプロ ドニプロペトロフスク
DF 17 ヴァシュク
    (1975/1/2)ディナモ キエフ
DF 22 スヴィデルスキー
    (1979/1/1)アーセナル キエフ
DF 13 チングリンスキー
    (1986/11/7)シャフタール ドネツク
DF 2 ネスマチニー
    (1979/2/28)ディナモ キエフ
DF 3 ヤツェンコ
    (1985/2/24)ハルキフ
DF 6 ルソル
    (1983/1/16)ドニプロ ドニプロペトロフスク
MF 16 ヴォロベイ
    (1978/11/29)シャフタール ドネツク
MF 19 カリニチェンコ
    (1979/1/26)スパルタク モスクワ
MF 14 グシン
    (1972/12/11)クリリヤ ソベトフ サマラ
MF 9 グセフ
    (1983/4/25)ディナモ キエフ
MF 8 シャラエフ
    (1976/11/5)ドニプロ ドニプロペトロフスク
MF 4 ティモシュチュク
    (1979/3/30)シャフタール ドネツク
MF 18 ナザレンコ
    (1980/2/16)ドニプロ ドニプロペトロフスク
MF 21 ロタン
    (1981/10/29)ディナモ キエフ
FW 10 ヴォロニン
    (1979/7/21)バイヤー レバークーゼン
FW 7 シェフチェンコ
    (1976/9/29)ACミラン
FW 20 ベリク
    (1981/2/15)シャフタール ドネツク
FW 15 ミレフスキー
    (1985/1/12)ディナモ キエフ
FW 11 レブロフ
    (1974/6/3)ディナモ キエフ

イタリア共和国
「FIFAランキング:13位、12大会連続16回目の出場、優勝3回(1934、1938、1982)」
(言語:イタリア語、首都:ローマ、人口:5748万人)
天才ストライカー「パウロ・ロッシ」がイタリアを3度目のワールドカップ優勝に導いてから早24年、あの日から地中海ブルー(アズーリ)のユニフォームは一度も世界一の風になびいていない。優勝が絶対条件とされた1990年の地元イタリア大会においても、準決勝でPK戦の末アルゼンチンに敗れ、三位決定戦では勝利を収めたものの、残念ながら世界一には手が届かなかった。そして1994年、イタリアの至宝「ロベルト・バッジォ」を擁しアメリカに乗り込んだイタリア代表は、幾度もの奇跡を起こし決勝戦まで勝ち上がった。しかし、猛暑のなか120分間戦い抜いた後のPK戦、ポニーテールのエースが右足を振り抜いた瞬間、またしてもアズーリの優勝は夢と消えた。そして2006年ドイツ大会、新生イタリア代表は、偉大なる先輩達から授かった伝統戦術「カテナチオ」と、セリエA得点王「トーニ」を中心とした多重攻撃とを組み合わせ、イタリア独自の新たなカルチョ・スタイルを編み出した。一次リーグ、アメリカとは1-1で引き分けたが、ガーナとチェコを共に2-0で破り一位通過。鉄壁の守備に加え、攻撃にも秀でた芸術的サッカー、大会前からイタリアの優勝を予想するファンが多かったのもうなずける。決勝トーナメント一回戦では、名将ヒディング率いるオーストラリアにややてこずったものの、1-0の完封勝ちを収め見事世界8強に名を連ねた。ちなみに代表のメンバーは全て、国内リーグ「セリエA」でプレーする猛者達だ。世界最高峰のスター軍団による華麗なカルチョのハーモニー、それは黄金のトロフィーを手にするまで奏でられる。正直、初出場の「ウクライナ」など眼中にない。

監督:マルチェロ・リッピ

GK 14 アメリア
    (1982/4/2)リボルノ
GK 1 ブッフォン
    (1978/1/28)ユベントス
GK 12 ペルッツィ
    (1970/2/16)ラツィオ
DF 22 オッド
    (1976/6/14)ラツィオ
DF 5 カンナヴァーロ
    (1973/9/13)ユベントス
DF 3 グロッソ
    (1977/11/28)パレルモ
DF 2 ザッカルド
    (1981/12/21)パレルモ
DF 19 ザンブロッタ
    (1977/2/19)ユベントス
DF 13 ネスタ
    (1976/3/19)ACミラン
DF 6 バルザーリ
    (1981/5/8)パレルモ
DF 23 マテラッツィ
    (1973/8/19)インテル
MF 8 ガットゥーゾ
    (1978/1/9)ACミラン
MF 16 カモラネージ
    (1976/10/4)ユベントス
MF 4 デ ロッシ
    (1983/7/24)ASローマ
MF 10 トッティ
    (1976/9/27)ASローマ
MF 17 バローネ
    (1978/4/30)パレルモ
MF 21 ピルロ
    (1979/5/19)ACミラン
MF 20 ペロッタ
    (1977/9/17)ASローマ
FW 15 イアクィンタ
    (1979/11/21)ウディネーゼ
FW 18 インザーギ
    (1973/8/9)ACミラン
FW 11 ジラルディーノ
    (1982/7/5)ACミラン
FW 7 デル ピエロ
    (1974/11/9)ユベントス
FW 9 トーニ
    (1977/5/26)フィオレンティーナ

アルゼンチン共和国
「FIFAランキング:9位、9大会連続14回目の出場、優勝2回(1978、1986)」
(言語:スペイン語、首都:ブエノスアイレス、人口:3810万人)
2002年は「まさかの一次リーグ敗退!!」という結末に涙を呑んだアルゼンチン代表だが、今回は役者が違う。リケルメ、アイマール、クレスポ、メッシ、ザビオラ、クルス・・・。スターの名前を挙げればキリがない。代表に選ばれた全ての選手達が、世界的英雄マラドーナの後継者であると言っても過言ではないだろう。時には荒々しく感じるほど力強い攻撃的なサッカー、それをピッチ上の11人全員で実行するアルゼンチン代表は、開幕前から今大会優勝候補の筆頭に挙げられていた。特定の選手だけが点を取るのではなく、互いの潜在能力を引き出し合う事でどこからでもゴールを奪える爆発的なオフェンス、それを彼らは一次リーグ第二戦で世界に見せ付けた。セルビア・モンテネグロを相手に、5人の選手で6ゴールを奪い取ったのだ。強豪オランダとの試合こそスコアレス・ドローに終わったものの、アルゼンチン代表はしっかりと「死のグループ」トップ通過を果たした。また、決勝トーナメント一回戦ではメキシコに先制されるも、その直後同点に追いつき、延長戦の末逆転に成功。この一戦で、肉体的・戦術的のみならず、精神的な力強さまで証明したアルゼンチン代表は、周囲の予想通りベスト8まで駒を進めた。圧倒的な破壊力を誇る優勝候補「アルゼンチン」、20年ぶりの栄冠を目指し、準々決勝の舞台で上り調子の開催国「ドイツ」を狩る。

監督:ホセ・ペケルマン

GK 1 アボンダンシエリ
    (1972/8/19)ボカ ジュニオルス
GK 23 ウスタリ
    (1986/7/3)インデペンディエンテ
GK 12 レオ フランコ
    (1977/5/20)アトレティコ マドリード
DF 2 アジャラ
    (1973/4/14)バレンシア
DF 6 エインセ
    (1978/4/19)マンチェスター ユナイテッド
DF 17 クフレ
    (1978/5/9)ASローマ
DF 4 コロッチーニ
    (1982/1/22)デポルティーボ ラ コルーニャ
DF 3 ソリン
    (1976/5/5)ビジャレアル
DF 21 ブルディッソ
    (1981/4/12)インテル
DF 15 ミリート
    (1980/9/7)レアル サラゴサ
MF 16 アイマール
    (1979/11/3)バレンシア
MF 5 カンビアッソ
    (1980/8/18)インテル
MF 13 スカローニ
    (1978/5/16)ウェスト ハム
MF 18 マキシ ロドリゲス
    (1981/1/2)アトレティコ マドリード
MF 8 マスチェラーノ
    (1984/6/8)コリンチャンス
MF 10 リケルメ
    (1978/6/24)ビジャレアル
MF 22 ルイス ゴンサレス
    (1981/1/19)FCポルト
FW 20 クルス
    (1974/10/10)インテル
FW 9 クレスポ
    (1975/7/5)チェルシー
FW 7 サビオラ
    (1981/12/11)セビージャ
FW 11 テベス
    (1984/2/5)コリンチャンス
FW 14 パラシオ
    (1982/2/5)ボカ ジュニオルス
FW 19 メッシ
    (1987/6/24)バルセロナ

ドイツ連邦共和国
「FIFAランキング:19位、14大会連続16回目の出場、優勝3回(1954、1974、1990)」
(言語:ドイツ語、首都:ベルリン、人口:8524万人)
言わずと知れた今回のワールドカップの開催国。地元開催と言う事で、当然ドイツ代表に求められる結果は「優勝」の二文字以外に有り得ない。しかし、かつてドイツのエースとして活躍したクリンスマンを指揮官に迎えたものの、守備面での不安をなかなか払拭できず、大会直前になってもなお国民(ファン)の信頼を得られずにいた。前大会の英雄オリバー・カーンをベンチに留め、プレミアリーグで活躍するレーマンを正ゴールキーパーに据えるというクリンスマン監督の衝撃的采配も、親善試合で「格下の日本相手にまさかの2失点!!」という結果によって、サッカーに厳しい国民の苛立ちを募らせた。しかし!!いざ開幕してみれば、ドイツ代表は持ち前のゲルマン魂を胸に若手選手が奮起。一次リーグを見事3連勝でトップ通過し、地元ファンの心を鷲掴みにした。また、決勝トーナメント一回戦ではスウェーデンを2-0と完封で下し、ずっと問題視されてきた守備面での不安も一掃したのだった。最後の最後まで諦めないゲルマン魂、立ち直った開催国「ドイツ」に死角はない。まずは優勝候補「アルゼンチン」を蹴散らし、四度目の頂点を目指す。

監督:ユルゲン・クリンスマン

GK 12 カーン
    (1969/6/15)バイエルン ミュンヘン
GK 23 ヒルデブラント
    (1979/4/5)VfBシュツットガルト
GK 1 レーマン
    (1969/11/10)アーセナル
DF 6 ノヴォトニー
    (1974/1/11)バイヤー レバークーゼン
DF 4 フート
    (1984/8/18)チェルシー
DF 3 フリードリッヒ
    (1979/5/29)ヘルタ ベルリン
DF 21 メッツェルダー
    (1980/11/5)ボルシア ドルトムント
DF 17 メルテザッカー
    (1984/9/29)ハノーファー96
DF 2 ヤンセン
    (1985/11/4)ボルシア メンヘングラッドバッハ
DF 16 ラーム
    (1983/11/11)バイエルン ミュンヘン
MF 22 オドンコール
    (1984/2/21)ボルシア ドルトムント
MF 5 ケール
    (1980/2/13)ボルシア ドルトムント
MF 19 シュナイダー
    (1973/11/17)バイヤー レバークーゼン
MF 7 シュバインシュタイガー
    (1984/8/1)バイエルン ミュンヘン
MF 13 バラック
    (1976/9/26)バイエルン ミュンヘン
MF 15 ヒツルスペルガー
    (1982/4/5)VfBシュツットガルト
MF 8 フリンクス
    (1976/11/22)ヴェルダー ブレーメン
MF 18 ボロウスキ
    (1980/5/2)ヴェルダー ブレーメン
FW 14 アサモア
    (1978/10/3)シャルケ04
FW 11 クローゼ
    (1978/6/9)ヴェルダー ブレーメン
FW 10 ノイヴィル
    (1973/5/1)ボルシア メンヘングラッドバッハ
FW 9 ハンケ
    (1983/11/5)ヴォルフスブルク
FW 20 ポドルスキ
    (1985/6/4)1FCケルン

長かった清掃業者によるストライキ・・・。
元々美しくないマンハイムだが、この時は街全体がゴミで覆われ、いつも以上に荒んで見えた・・・。
それは、まさに地獄絵だったと言えるだろう・・・。

ストライキ2

↑・・・寂しげな給水塔。

ストライキ1

↑・・・回収せーや!

ストライキ3

↑・・・無残なパラーデ広場


エントリーナンバァァァーーー09番!!
世界三大祭りの一つ、ヴェネツィア仮面カーニバル(イタリア)代表
神をも魅了する、気位高き仮面の女王
ミケラ・メルゲッティさん(17歳)
決定です!!
おめでとうございます!!
それでは、審査員長proudjapaneseさん)との記念撮影を行います。
せーのっ、スパゲッティー!!
優勝美人
ミケラ!!


ブラゲッデBlaggedde)とは、バーズラー・ファスナハトにおいて最も大切なモノである。

ブラゲッデ1

コイツらは周りをよ~く観察している・・・。

午後のパレードでワゴン車が通り過ぎた直後、街は一斉に無法地帯と化す。
上の写真にあるように、こういった兵隊は周りを非常に良く観察しており、狙いをつけたターゲットは絶対逃がすことなく紙吹雪まみれにして去っていく。
初めてこの祭りに参加した人の目には、彼等がただ単に暴走しているようにしか映らない。
しかし、実はそうではないのだ。
実際ほとんど攻撃を受けなかった
それは僕が外国人だからか?
いや、そうではない。
彼等はしっかりと観衆の全身を観察しているのだ。
そう・・・、アレを持っているのか?いないのか?を。

ブラゲッデ2

アレを持っていない奴は・・・

このカーニバルにおいて絶対的な力を持つアレとは、もちろんブラゲッデのことである。
ブラゲッデは所謂バーズラー・ファスナハトの参加を証明するバッジのようなもので、祭りの季節が近づくと(期間中も)売店や路上などで売り出される。
街のあちこちで見かける箱を片手に持ったブラゲッデ売り達、その独特客寄せの呼び声が聞こえ出すと、バーゼルの人々は春の訪れを実感すると言う。
仮面を被ったギャング達は、このバッジを(良く見える所に)身に付けている者は(基本的には)襲わない。
ブラゲッデを購入した人は、来年のカーニバル用貴重な運営資金集めに貢献してくれた人間と判断されるからだ。
更に面白い点は、このブラゲッデ三種類のランク分けがなされていることである。
(写真)のバッジは45フラン、は14フラン、そしては7フランというふうにだ。
それらは、若干大きさも異なる。
は本当に無敵で、ワゴン車からの贈り物をほぼ確実に手渡してもらえる(こともある)。
を所有している人に対しては、そっちの方向に投げてくれる(こともある)。
に関しては、・・・まぁ攻撃はされないという程度だろう(攻撃されることもある)。
値段は圧倒的に高かったものの、僕は三年連続でブラゲッデを購入したおかげで、多くの贈り物最高の思い出を持って帰ることが出来た。

ブラゲッデ3

↑2004年版ブラゲッデ

ブラゲッデ4

↑2005年版ブラゲッデ

ブラゲッデ5

↑2006年版ブラゲッデ

ブラゲッデ6

↑2006年版リースタールブラゲッデ
リースタールでの値段は、45フラン、12フラン、8フランだった。

ブラゲッデ7

↑歴代ブラゲッデの展示。
古い物は僕よりずっと年上だった。

NAKATA

サッカー日本代表中田浩二選手も、胸にブラゲッデを付けてました。

PS.今季からスイスプロサッカー1部リーグバーゼルFCに移籍した中田浩二選手に、僕はこの日(2006年3月6日)偶然マルクト広場でバッタリ出会った。正直、かなりビビッた。まさかこんな所で会えるとは・・・。「お前は礼儀も知らんのか?!このあいだの試合(2月28日に行われたボスニア・ヘルツェゴヴィナ戦)は何だったんだ!!試合後ファンに挨拶の一つも出来ないのか!!そんなんだったらさっさと引退しろ、このボケッ!!」僕はそう言ってやるつもりだった。・・・が、止めた。僕はへタレだし、なにより彼が素晴らしい青年だったからだ。数分間ではあったが、少しだけ会話もさせてもらった。サッカー好きの僕が太股を触らせてもらっても、嫌な顔一つしなかった。写真撮影にも応じてくれたし、高ぶった態度は一切なかった。彼と出会えたおかげで、もう一度日本代表応援しようと思えた。

リースタール1

↑小さな街リースタール

2006年3月5日日曜日、僕はバーゼルから電車で10分ほど離れた小さな街リースタールにいた。
毎年バーズラー・ファスナハトの前夜に行われる火祭りを見るために。
ファスネット・リーシュテールFasnecht Lieschtel)、タイマツに灯った炎で冬を追い払い、春の訪れを祝うお祭りだ。
ちなみ上記の呼び名は、ファスナハト・リースタールFasnacht Liestal)が訛りによってクズれたものだと思われるが、現地の人は皆そのまま使用している。

リースタール2

↑放置されたマスク

リースタール3

↑着火前のタイマツを持ったお兄さん方。
背中には「Achtung Heiss!熱いから気をつけて!)」の文字が・・・

火祭りは夜に始まる。
前座として、変装した参加者達がグーグルミュージックを奏でながら大通りを行進して行く。
いくつもの山車や巨大提灯が行き過ぎ、ピッコロの音色が暗闇に響き渡った。
ここまでは、バーズラー・ファスナハトとほとんど同じだった。

リースタール4

↑前座の行進

前座が終わった午後9時前、ついに遠くの方から微かな灯りが見えてきた。
さぁっ、ついに火祭りの始まりだ!!
巨大なタイマツをかかえた人達が、大通りをダッシュで駆け抜ける。
老若男女関係なく、何人も何人も・・・。
観衆の声援と炎の熱気を全身に浴びて、大きなタイマツを持った参加者達が僕の目の前を次々に横切った。
その度に舞い散る火の粉を払いながら、僕は必死でこの祭りを楽しんだ。

リースタール5

↑遠くから近付く炎

リースタール6

熱い!

リースタール7

熱いって!!

リースタール8

↑なるほど・・・。これなら冬も逃げ出すわなぁ・・・。

ファスネット・リーシュテール火祭り、文字通り熱い祭りだったと思う。
でも・・・、やり過ぎや!!

今年の薔薇の月曜日、僕はロットヴァイルだけでなく、同じく黒い森にあるフィッリンゲンVillingen)という街にも足を運んだ。

フィッリンゲン1

↑フィッリンゲンの街並み

この街のファスネット、盛大に行われた愚者行列Narrenumzug)もかなり見応えがあった。
基本的にはロットヴァイルで見たものとあまり変わらないのだが、それでも若干の違いはあった。

フィッリンゲン2

愚者行列

一つ目は衣装だ。
ロットヴァイルとは異なり、この街ではお面をかぶっていても彼等の男女の区別がハッキリできた。
二つ目は観衆の掛け声で、ロットヴァイルで聞いたあの奇妙な高笑いは一切耳にせず、みんな何やら呪文(?)のようなものを唱えていた。

フィッリンゲン3

↑男女で衣装が違う。

三つ目はイタズラの仕方
ロットヴァイルのようなクスぐり隊が一人もおらず、その代わりなのか、伸縮可能なハサミのようなもので観衆の帽子を奪っていく輩が・・・。

フィッリンゲン5

↑イタズラする輩・・・

まぁ、この街の人々は愚者仮装していたというよりも、むしろ民俗衣装を身に着けて楽しんでいたように見えた。
やっぱり祭りは、いいもんだ・・・。

フィッリンゲン4

↑子供達も楽しんでいた


ヴェネツィアと並びイタリアを代表するヴィアレッジョのカーニバル、19日に見たその凄まじい光景を僕は一生忘れる事ができない。
雰囲気はどことなくニースのカーニバルに似ていて、とにかくドンチャン騒ぎをする所などは一般的な欧州の祭りと何も変わらない。
しかし、何と言ってもこのカーニバル最大の売りである「巨大山車のパレード」の迫力には開いた口がふさがらなかった。
多種多彩な形をした山車が、ゆっくりと大通りを進む・・・。
その大きさはちょっとしたビル並で、驚くのを通り越して呆れてしまう。
しかもその巨大な山車がいくつも用意されているのだから尚更呆れる。
ここまで祭りに金と労力をかけるのか・・・と。
とにかく、スケールの大きさという意味では、このカーニバルの右に出るものはないだろう。

ヴィアレッジョ

デ、デカイ!!

ヴィアレッジョ1

とにかくデカイ!!

ヴィアレッジョ2

金の亡者、小泉首相を皮肉った山車も・・・。


人が行く、裏に道あり、華の道」・・・、これは僕が尊敬するプロ・スロッター(パチスロで生計を立てている人)名波浩さんの言葉で、成功を収めたければ他人と同じ事をしていては駄目だという格言である。
名波さんはこの考えを忠実に守り、「北斗の拳」や「吉宗」などの一発台に人が群がる中、手堅いAタイプを攻略し利益を上げ続けている。
そう、大勢の人々が押し寄せる場所ではなく、その裏の道にこそ輝くモノが落ちているのだ。
しかし・・・。

今回の「祭り巡りの旅」を計画するにあたって、僕を最も悩ませたのは「宿の確保」だった。
オリンピックが開催中のトリノをはじめ、ニース、マントン、ヴェネツィア、ヴィアレッジョなどのカーニバル開催地には、言うまでもなく大勢の観光客が押し寄せる。
当然、その地でのユースホステルを含めた宿泊施設は、全て数ヶ月前から予約で一杯になるものだ。
そういった理由から、僕は名波さんの格言通り、目的地から少し離れた都市のユースホステルや安宿を前もってピックアップしておいた。
トリノニースマントンヴィアレッジョの基点としてジェノヴァのユースホステルを、ヴェネツィアの基点としてブレーシャの安宿バーニャカヴァッロのユースホステルをチェックしておいた。
インターネットで調べた情報により、上記の宿泊施設はこの期間中も営業している事、そして予約が全く埋まっていないという事が分かった。
しかし・・・。

ジェノヴァのユースホステルは当たりだった。
鉄道パスをフルに活用し、そこからトリノやニースなどを往復で訪ねる事ができたからだ。
更に全く人がおらず、8人用の部屋を一人で占領でき、実に快適に過ごせたのも嬉しかった。
しかし、問題はもう一つのユースホステル、バーニャカヴァッロだった・・・。
3月1日まで閉鎖中」という貼紙が貼られた入口・・・、それを目にした瞬間、僕はかなりのショックを受けた。
この旅二度目の野宿だが、一回目とは状況が明らかに違う。
マントンからヴェネツィア行きの夜行に乗れなかった時、僕はイタリアン・リヴィエラ(温暖な気候が売りのリゾート地)で野宿した。
しかし、念のために持参した寝袋を使用する必要もないほどの気温、24時間開いていた大きな駅、そして始発の列車が出るまでの短い時間(約4時間)・・・。
つまりこの旅最初の野宿は、苦痛どころか宿代が浮いた事を喜べるほどの状況だった訳だ。
しかしバーニャカヴァッロでは・・・。

エミリア街道から少しズレた地域にある田舎町バーニャカヴァッロ、ボローニャとラヴェンナとを結ぶローカル線上にある小さな街だ。
ショボイ駅は早々に閉められており、鉄製のベンチが二つ並んでいるだけ・・・。
僕が到着したのは午後11時頃で、トーマス・クックにも載せられていないローカル電車は、翌日の7時まで来ない・・・。
そして何よりここはイタリア北東部、とにかく寒い!!
冷え切った鉄製のベンチは、寝袋に包まって横になっていた僕の全身を麻痺させた。
吹き付ける冷酷な突風・・・、ヴェネツィアで購入したカーニバル用の仮面を、まさか防寒のために使う事になるとは・・・。

野宿

ベンチで横たわる僕・・・。



人が行く、裏に道あり、華の道」・・・、これは僕が尊敬するプロ・スロッター名波浩さんの言葉で、成功を収めたければ他人と同じ事をしていては駄目だという格言である。
そう、大勢の人々が押し寄せる場所ではなく、その裏の道にこそ輝くモノが落ちているのだ。
しかし、そのためには事前の情報収集を怠ってはならない。
確かに僕は、バーニャカヴァッロのユースホステルが営業している事をインターネットで確認していた。
だが現地に出向く前に、どうして電話の一本でもかけなかったのだろう。
そこからは、明らかに僕の怠慢さがうかがえる。
大勢の観光客が集まる大都市を避け、一歩裏の街で輝く寝所を探す・・・、おそらくそれは間違いではない。
しかし、とんでもない田舎町での宿泊を計画する場合は、直前に再度電話確認する事をお勧めする。

結局この夜、僕は拾ってきたダンボールの上に座り込み、ただひたすら時間が行き過ぎるのを待った。
この悪夢の一夜で学んだ事、それはダンボールの優秀さだけだったと思う。
他に得たものなど、何もなかった・・・。

野宿1

お世話になったダンボール君とマスクちゃん。


世界三大カーニバルの一つ、イタリアが誇るヴェネツィアのカーニバルに、今回僕は二日間参加してきた。
もはや何も説明する必要はないだろう。
繊細かつ大胆に、華麗かつどこか不気味に作られた仮面・・・。
霧が充満する街中を仮装して練り歩く人々・・・。
他のどのカーニバルとも違った伝統ある独自の祭り、水上の都で開催されるこの一大イベントを知らない人はいないだろう。
僕も仮面を購入し、即席の仮装をしてその輪に加わってみた。
この有名なカーニバルを一言で表現すれば、「品のある宴」といったところだろうか。
ドンチャン騒ぎがメインのカーニバルとは異なり、この日のために用意した華麗な衣装に身を包んだ参加者たちが、それぞれ静かながら強烈な自己主張を行い観衆の目を釘付けにする。
ヴェネツィアを訪れたのは今回で5度目だが、今までで最も印象深い水上の迷路散策ができたと思う。

ヴェネツィア

彼らはドイツ人でした・・・。

ヴェネツィア1

彼らこそ正真正銘のヴェネツィア人!!

ヴェネツィア2

うーん、絵になりますね。

ヴェネツィア3

少し気持ち悪い・・・かな。

ヴェネツィア4

子供達も頑張ってました!!

ヴェネツィア5

僕(右)も頑張ってみました!!


フランスのマントン、イタリアとの国境近くに存在するこの街では、毎年カーニバルの時期(今年は2月10日~26日)になると一風変わった祭りが開催される。
Fete du Citronレモン祭りである。
柑橘系で造られた彫像の展示、また毎年違ったテーマによるパレードは、訪れた人々を陽気に迎え入れてくれる。
2月16日、僕はこの祭りに出向いた。
前日に見たニースのカーニバルとは全く違った雰囲気がそこにはあった。
レモンオレンジを用いた彫像の展示などは、まさにフルーツが良く育つ温暖な街ならではのアイデアだと感じた。
夜に行われたパレードも圧巻の一言で、「世界のカーニバルLes carnavals du monde)」というテーマの下、実に見事な行列が賑やかに大通りを行進していた。
世界の様々なカーニバルをモチーフに造られた山車、各国の民俗舞踊、そしてその国々の美しい女性たち・・・。
ただ、まぁ、美味しいトコロは全てゲストで参加していたブラジル勢が持って行ったのだが・・・。
僕個人としては、ニースのものよりもこちらのカーニバルの方が気に入った。
今まで大嫌いだったフランスだが・・・、「フランス最高!!」と思ってしまった。

レモン祭り
レモンオレンジで造られた彫像はこの街ならでは。

レモン祭り1
↑彫像と僕。

レモン祭り2
↑夜のパレード。

レモン祭り3
↑アメリカのカーニバルをモチーフに、レモンオレンジで造られた巨大な山車。

ヨーロッパ三大カーニバルとして非常に有名なフランスの祭り、それがニースのカーニバルCarnaval de Nice)だ。
巨大な張子の王様の登場によって始まり、最終日の夜にその王様が炎に包まれる事(実は違う王様が燃やされるみたいだが)で祭りは派手に幕を下ろす。
期間中(今年は2月11日~28日)の華やかなイベントには、毎年世界中から大勢の観光客が訪れ、寒くて暗い冬を皆で追い払う。
僕は今回、14日に行われた「花のパレード」を見てきた。
美しい女性たちが歌い踊り、そして観衆に花を投げ渡す。
内容は典型的なヨーロッパのカーニバルといったとこだが、とにかくその盛り上がり方がハンパじゃなかった。
僕はフランスという国が(人も)大嫌いだったが、少しだけ好きになれたような気がする。

花のパレード
↑花をイメージしたダンサーたち。

花のパレード1
↑花を投げる女性たち。

花のパレード2
↑巨大な「だましの王様Le roi des dupes)」と僕。

チケット
95ユーロ・・・、高い!!

4000年以上もの歴史がある街、ダマスカス・・・。
僕の期待通り、そこにはいくつもの見所が点在していた。

モスク
↑世界最古のモスク、ウマイヤド・モスク

道
↑聖書にも登場する「真っ直ぐな道

カシオン山
↑史上初の殺人現場・カシオン山、そこから眺めたダマスカスの夜景

2月から新エンブレム

読売巨人軍は、これまで使用していた「ジャビットエンブレム」に代わり、球団名である「巨人」をイメージした新しいエンブレムキャラクターを作成しました。
2月1日のキャンプインと同時に「YGマーク」「GIANTSロゴ」と同様、球団商標として様々な形で活用していきます。

新エンブレムは、「巨人」という言葉の持つ力強さをモチーフに、片手にバットを4本も持った巨人の勇姿を描いたものです。
周囲のビル群は本拠地の東京ドームを含む大東京を表し、国際的に見ても東京をフランチャイズとするチームであることが分かるようにとデザインされています。球団が「巨人」そのものをエンブレムに採用するのは初めてです。

原監督は「強そうな感じで、個人的に気に入っています。みんなにかわいがられるようなエンブレムになればいいと思います」と話しています。

巨人軍

「Yomiuri Giants Official Web Site(読売巨人軍公式HP)より引用」

映画インディー・ジョーンズ~最後の聖戦~」の舞台にもなったヨルダン最大の観光名所ペトラ遺跡、ここを訪ねずしてヨルダンに来たとは言えない・・・。

ペトラ
↑絶壁に囲まれた細い道を進むと・・・。

ペトラ1
↑はいっ、どーん!ペトラの宝、エル・ハズネ

ペトラ2
↑山の頂上には、エド・ディルがどっしりとかまえている。

しかい死海
ヨルダンイスラエルとの境にある内陸の塩湖。
ヨルダン川が流入。
面積約1020平方キロメートル(琵琶湖の約1.5倍)。
水面は海面下392メートルで、地球上で水面の最も低い所
最大深度410メートル。
塩度が非常に高い
英名はDead Sea。
「広辞苑(岩波書店)より引用」

死海
死海。対岸はイスラエル

死海1
↑新聞読めちゃいました!本当によく浮きます!

エジプトを一人で旅するのは、本当にハードだ・・・。
笑顔で近付いて来る人間は大方(悪名高い)ホテルの客引きか(ボッタクリ)商人のどちらかだった。
奴等は片言の日本語と、粘り強い(しつこい)勧誘で僕(の財布)を狙ってきた。
強気に断る事で何とかその障害を乗り越えても、次のハードルはまたすぐに僕の前に現れる。
ヘイ!ジャパニーズ?!マネー!マネー!バクシーシ!」、・・・糞ガキの大群が押し寄せる。
このハードルを飛び越えるのは実に難しく、一人ずつスマートに断っていたのでは日が暮れてしまう。
華麗に飛び越える事を早々に諦めた僕は、薙ぎ倒す事でこの高いハードルをクリアした。
しかし息をつく間もないまま、再び笑顔の詐欺師が寄ってくる・・・。
一日中この繰り返しだった
この国には、糞野郎が多すぎたのだ。

話に聞いていた通り、エジプト人の時間に対する概念は、我々日本人のものとは明らかに違っていた。
アラブ諸国の最大の魅力は、穏やかにゆっくりと流れ行く時間の経過なのだろう」、旅人のバイブル「地球の歩き方」にはそう記されていた。
・・・それは大間違いだ
おそらく、ダイヤモンド社の記者は編集室でタバコをフカしながら、この適当な三流フレーズを考え出したのだろう。
締め切り日が迫っていたのか、仕事後のキャバクラが待ち遠し過ぎたのかは謎だが、こんな文面を掲載してしまうとは・・・、ずっと愛読してきたファンだっただけに非常に残念だ。

確かにエジプト人は何をするにしても「ゆっくり」だった。
だから僕も最初は、彼等の「ゆっくり生活」と同様に「エジプト時間」もゆっくり流れているように感じた。
しかし、それは錯覚だった!
時の流れはあくまで万国共通、一日24時間だ。
ただ彼等がその24時間をダラダラ使っているだけの事である。
この「エジプト(ダラダラ)時間」は、時間に限りがある旅行者の苛立ちを煽る。
ゆっくりと流れ行く時間」?!
いや、むしろそのだ。
日本や欧州なら一日で出来る事が、ここでは三日も四日もかかる・・・。
無駄な時間だけが過ぎて行き、旅行を計画通りに実行する事すらさせてくれない・・・。
更に最初に記したように、金目的で近付いてくる糞野郎どもとのヤリトリにも時間がかかる。
エジプト時間」は「ゆっくり」どころか、「あっという間」に過ぎて行った・・・。

郷に入りては郷に従え!」、「異文化の尊重!」、「日本人が急ぎ過ぎ!
・・・何度頭の中でそう自分に言い聞かせても、やはり実際彼等のペースに合わせるのは難しかった。
苛立ちだけが募っていく日々・・・。
かつて「京都の仏陀」と呼ばれていたほど寛大な僕の眉間にも、日を追う毎にシワが深くなっていった。
日本人が急ぎ過ぎ!」・・・なのではない。
彼等は、都合が良い時だけ「ゆっくり」なのだ。
それ以外の時はしっかりと急いでいる。
(列車やバスなどの)切符を買う時は、絶対に列に並んで待つ事をせず、割り込んででも先頭を目指す。
車の運転も乱暴で、僅かな隙間を勝手に見つけて強引に寄せていく。
本当に意味が分からない。
アラブ時間」は「ゆっくり」どころか、僕を苛立たせたまま「あっという間」に過ぎて行った・・・。
エジプトを一人で旅するのは、本当にハードだ・・・。

人生初の砂漠での一夜、恐ろしいくらいの寒さに身を震わせていた僕は、一晩中寝る事が出来なかった。
深夜三時頃だったろうか、寝袋と三枚の毛布に包まりながら必死で寒さに耐えていた僕の耳に、僅かな囁き声が届いたのは。
無音の世界の中にいながら、明らかに人為的な音声が微かに響いてきた。
僕は全神経を集中させる事で、何とかそれを解読する事に成功した。
その結果、肉声はデザート・タイガーアザム」の口から発せられていたもので、それは小学生レベルの英文によって構成されている事が分かった。
I love you」・・・。
当然そのセリフは若い韓国人女性に向けられた言葉で、アザムは何とか彼女を別のテントに誘い出そうとしているようだった。
こんな事を言っては何だが、その女性は特に美人という訳ではなかったのだが・・・。
しかし今回のツアー参加者の中には女性は二人しかおらず、その内の一人は僕の横でイビキをかいていたお母さんだった以上、宗教の戒律によって同族内での性交を抑えられているアザムは、何とかその若い韓国人女性を口説き落としたかったのだろう。
彼は必死だった。
結局失敗に終わったものの、彼のその必死に食い下がる姿勢はまさに「砂漠の虎」そのものだった。
性欲を満たすためにあそこまで努力するデザート・タイガー、その姿に僕は感動せずにはいられなかった。

翌朝、車で移動中に、アザムは数枚の名刺を僕に手渡しこう言った。
日本人の女の子に渡してくれ!」と。
昨夜はうまくいったのかと僕が尋ねると、彼は少し恥ずかしそうに呟いた。
「韓国人は難しいねー。日本人の方がイージーだよー。だからヨロシク!」
砂漠の虎」は、夜になると「砂漠の狼」へとその姿を変えるようだ・・・。

アザム
↑真ん中にいるのが砂漠の虎アザム

リヒテンシュタイン公国スイスとオーストリアに囲まれた、西ヨーロッパの中心部に位置する小国である・・・。
去年の冬、僕はその小国を目指してマンハイムを後にした。

ドイツ国鉄の切符売場(マンハイム中央駅)でリヒテンシュタイン行きの乗車券を購入した僕は、当たり前のように指示された出発ホームへと向かった。
ドイツに住むようになってもう既に一年、ドイツ語を使用するのに何の不自由もなくなっていた。
そもそもここはドイツ連邦共和国、幼い頃からもう何度も来た事のある、言ってみれば僕の第二の故郷みたいなものだ!・・・と思っていた。
国は違えどリヒテンシュタインもドイツ語を公用語とする国家、この僕が一泊二日の小旅行に出るのに一体何の問題が生じようか!・・・そう思っていた。
自信」というのは恐ろしいものだ。
ふと気付いた時には「過信」に姿を変えているのだから・・・。
羽賀研二チンポよりも長くなっていた僕の鼻では、切符売り場のオバサンが乗車券を手渡す時に見せた「不思議そうな表情」など嗅ぎ取れるはずがなかった。

22時21分、僕はフランクフルト行きのECに乗り込んだ。
そこから23時37分発、???行きの夜行列車に乗り換えた。
余裕をカマしてギリギリまで喫煙所でメンソールをフカしていた僕は、予定表に載っていたホームに向かっただけで、その電車が何処行きなのかすら確認していなかった。
二人組みの警官がコンパートメントを力強く開きパスポートの提示を求めてきたのは、その列車が出発してから約4時間が経った頃だっただろう。
驚いたのはその直後だった。
何の問題もなく持ち主のもとに戻ったパスポートには、なんとチェコ入国のスタンプが(国境も越えてないのに)押されていたのだ!
そう、この列車はプラハ行きだった訳だ・・・。
僕は・・・間違った電車に乗ってしまったのだろうか・・・?
流石に焦った僕は、もう一度ちゃんと乗車券と同時に受け取った予定表を見直した。
そうすると、そこには更に驚くべき事実が書かれていたのだ。
チェコとの国境駅までこの電車で行き、そこから更に乗り換えると記されていた。
リヒテンシュタインに行くのに、チェコ方面の列車に乗る・・・?
まぁ、とりあえず僕はその予定表に従って移動する事にした。

Marktredwitzという駅で乗り換え、更にHof中央駅で乗り換えGlauchau駅に向かう途中、またしても二人の私服警官が乗り込んできた。
パスポート・チェックをしながら、彼等は僕に色々な質問を投げかけてきた。
その内の一つに「何処に行くんだ?」という問いがあったので、僕はリヒテンシュタインだと答えると、すかさず「何しに行くんだ?」と尋ねられた。
観光!」・・・、僕がそう答えた瞬間、その場の空気が凍りついた・・・。
時間にすれば僅か数秒だったのだろうが、重苦しくも寒ーい静寂の間が僕を抑え付けた。
そして、つい先程まで無愛想だった二人の警官が一斉に上げた大きな笑い声によって、凍結した空間は瞬時にまた解凍されたのであった。
「この近くにあるのはRichtensteinザクセン州)だぞ!!お前が行きたい観光地はRiechtensteinの方だろう??全くの逆方向だぞ!!しかも、切符までザクセン州Richtenstein行きを買ってしまってるし!!お前、馬鹿な事をしたもんだな!!次すぐに降りて、ニュルンベルク、ミュンヘン経由で戻った方が早いぞ!!それでも大分遠いけどな!!HA!HA!HA!!
彼等はそう爆笑しながら去っていった・・・。
僕は車内で一人、瞳から零れ出る涙を拭いながら己の無能さを思い知った
Richtenstein?!Riechtenstein?!知るかっ!カタカナで書けばどっちもリヒテンシュタインやろうが!!引き返せ?!アホか?!ここまで来たんや、ドイツ(ザクセン州)のリヒテンシュタインも観光してったる!!」
・・・僕はそう決意した。

 リヒテンシュタイン
↑ドイツ(ザクセン州)のリヒテンシュタイン(Richtenstein)

田舎を絵に描いたような何もない風景を眺めながら、戻りの電車が来るまでの一時間をショボイ駅のベンチで過ごした・・・。
無駄な時間を費やし、無駄な体力と金を消費し、無駄な場所に辿り着いた・・・。
何故気付かなかったのだろう・・・。
スイス方向なのだから、マンハイムからフランクフルトに向かった時点でおかしかったのに・・・。
脱力感・・・絶望感・・・、自分自身への怒り・・・。
しかし僕は、頑張ってその日の内にRiechtensteinに向かった・・・。

はぁぁぁ
はぁぁぁ・・・

2005年12月9日午後9時30分ドイツ時間現在、全世界がライプツィッヒャー・メッセに注目している(かなり大ゲサだが・・・)。
我々が愛する美しき青き惑星「地球」における唯一無二の共通語、ボディーランゲージ「サッカー」・・・。
どの国のどんな田舎を訪れても、英語を知らない人はいたものの、サッカーを知らない子供達はいなかった。
国籍文化言語民俗歴史宗教身分性別貧富相違に左右される事なく、丸いボールを蹴るだけの単純なスポーツは、観る者を興奮の坩堝へと誘い、同時に若い子供達に勇気と希望を与える。
特に、最も国際的な注目度の高い世界大会「サッカー・ワールドカップ」は、「最強」を競い合う高水準の試合が観れる最高のイベントとして認知されている。
日韓共同開催という形でアジアで初めて行われた2002年大会の記憶は新しく、当時は僕も母国で熱狂したのを覚えている。
選び抜かれた精鋭達が、自国の誇りを胸に頂点を目指し戦う姿・・・、その勇姿は人々の胸を打った。
あれから3年、2006年ドイツ大会を翌年に控えた今、現在僕が生活するここドイツでは、毎日ワールドカップの話題で持ち切りだ。
そして今日、まさに今から、2006FIFAワールドカップ・ドイツ大会の組み合わせ抽選会が始まろうとしている・・・。
僕は日本を応援する一人のサッカー・ファンとして、この生放送から目を離す事が出来ない。
当然・・・旅行の準備(荷造り)は中々進まない・・・。

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